琴海の嵐(15)

昇の江戸での活動は、練兵館の塾頭に就いたころから活発になってきます。とくに、小五郎との関係から交際範囲が広がっていきました。

当時、小五郎は、安政6年(1859)に執行された吉田松陰の処刑で、幕府に対する、強い反感を抱き始めていました。小五郎は松陰の弟分的な立場から、松陰の活動を支えていましたが、松陰が海外へ密航を企てたことから、長州藩の預かりとなり、その後、安政の大獄に絡んでいたとみなされ、しかも、幕閣襲撃の計画を口に出したことから伝馬町の牢獄で処刑されたのです。

吉田松陰 Wikipedia より

小五郎は、松陰の処刑を境に幕府に批判的となりますが、桜田門外の変は、その後の小五郎の行動の転換点になったといえるでしょう。その始まりが、万延元年(1860)7月の丙辰丸(へいしんまる)の盟約です。丙辰丸は、長州藩が建造した西洋式軍艦で、その艦長は小五郎の盟友である松島剛蔵でした。

松島も松陰の友人であり、松陰の刑死を幕府の誤りだとみていました。そこで、小五郎と松島は、幕政を改革する必要があると考え、機会を伺っていました。この時点では、倒幕までは考えていなかったように思います。

その機会は、桜田門外の変です。井伊大老襲撃の首謀者は、御三家である水戸藩士でしたので、幕府の中枢にいるはずの藩の中にも幕政に対する批判勢力があることは驚きでしたが、ここに、佐賀鍋島藩士の草場又三郎という人物が出てきます。草場は、儒学者佐藤一斎の門下で、そこで西丸帯刀ら水戸藩尊王攘夷の一派と近づきになり、小五郎や松島と親しかった草場が西丸らとの仲介役となりました。そして、幕政改革に向けての共同歩調を長州藩水戸藩尊王攘夷派の間で取ろうということになり、その盟約を江戸湾に航海してきた丙辰丸の船上で結びました。

これを丙辰丸の盟約、あるいは「成破の約」といいます。

内容は、水戸藩側が幕府内で改革に向けてのお膳立てをし(破壊)、これを長州藩側が幕府外から支援して、内外から成功させる(成就)ことに尽力するというもので、両藩の共同行動を誓う盟約です。藩同士の正式な同盟とは言えませんが、小五郎が反幕運動に乗り出すことになった最初の一歩と言えるかもしれません。

また、盟約が結ばれた丙辰丸には、高杉晋作久坂玄瑞も下関から乗り込んでいましたので、当然に、この盟約に関わっていたはずです。そして、その後の小五郎ら長州藩の行動に昇は引き込まれていくのです。